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印刷機に於けるインクタンク [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

2015-08-18 火曜日 
祖父箱木一郎関連記事
インクタンクに関する特許に対して、特許権侵害が起きてからの対応が茶封筒に電波新聞と一緒に保管されている。
興味深いことに、この特許権侵害事件が1969年に起こり、催告文を電波新聞の4ページ下段左に掲載し、その後1980年10月31日の実用新案公報(Y2)昭55-46511(日本国特許庁JP)には「印刷機に於けるインキタンク」の実用新案が掲載されている。そこには、実はいくつもの特許を取っていたという事実を死後聞いた叔父箱木克士の名前が考案者として記載されている。
 更に、昭和58年(1983年)11月25日金曜日の電波新聞の4ページには「実用新案権侵害に関する御注意」(実用新案登録 第1385954号)が実用新案権者日本曲面印刷機株式会社代表取締役箱木徹哉の名で再び掲載されているのである。

以下 資料

SSCN2847.JPG1) 電波新聞への広告(昭和44(1969)年8月27日)

催告

 当社は実用新案登録第843550号 名称「印刷機に於けるインキ・タンク」の実用新案権を有して居りますが(その権利範囲は末尾の記載の通り)、東京板橋方面に於ける某社から今までにこの権利を侵害する物品を購入し、使用されている業者があります。
 これは、実用新案法の侵害罪として3年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処せられるものであり、且つ当社に対して民事上の損害賠償の責を負わなければならないものでありますから、御使用者はこの広告を御覧になると同時に、直ちに使用をお取り止め下さい。
 上記の通り催告致します。


    
実用新案登録第843550号の権利範囲



東京都世田谷区喜多見町〇〇〇〇番地
実用新案権者 日本曲面印刷機株式会社
代表取締役 箱木 一郎

 当社は この権利に係わる製品(電子部品カラーコード印刷機・円筒形パーツ印刷機等)を製造・販売して居ります。今後御使用の際は、当社宛ご照会を賜りますように併せて広告申上げます。


2)  その他手書き備忘録
 昭和44年(1969年)8月22日 
松田特許事務所訪問(克士氏同道)
① S氏(S製作所)当社特許(実用)侵害に対する特許法による手続き等の打ち合わせのため
② 明8月23日、M氏がS氏及びSに対して会見通知を内容証明で二通出す(8/27 14時~17時)
③ 当社としては電場新聞に広告を出す(内容別紙)
④ 細部は日誌メモにあり

SSCN2846.JPG8月23日(土)
以上の件を役員会を開き克士氏説明する。
 出席者 東洋男氏、徹哉氏、堀内氏、土屋氏

8月26日 M氏よりの連絡によると、S氏27日15時松田事務所にこられるとの連絡あった、とのこと。

8月27日 上記の件で、社内役員会を開きS氏に対する条件を松田先生に提示する打ち合わせ会議を開く。
堀内氏、銀行に行き不在なれ共内容の点本日   

昭和44年8月27日
当社が所有する実用新案権に対する侵害事件
1. 侵害者S製作所(S氏)に対して松田先生を代人として催告を行う(25日文書により通達別紙)(内容証明)
2. 8/27一般に催告文を電波新聞に掲載する
         (別紙 8/27新聞)  
3. 8/27 S製作所(S氏)と松田先生事務所にて会見する。事前にその要望事項に関して本日午前役員会議を開き決定す。
出席者 東洋男 克士 土屋
S氏に要望事項
1) 本日前に販売せる数量及び納入先のリストを提出願う
2) 現在製作中の納入先及び数量のリスト 〃
3) 今後は直接受注せず全部曲面に廻す」
4. 8/27 三時松田事務所にてS氏と会見す
  当社出席者 東洋男氏 克士氏 土屋 三人
1) S氏より詫證を提出す。
2) 契約覚書を取り交わす( 1)、2)、3)項の内容 )
5. 8/28 克士氏松田事務所に電話せるところ本日S氏に対し27日会見の折約束せる要望事項①②を文書にて回答を求める内容証明を出すとの」であったSSCN2845.JPG

箱木一郎の思い出 その3 [箱木一郎の思い出]

 祖父一郎の思い出 その3
2014年9月7日 日曜日
箱木一郎の長男、東洋男の一郎の思い出。昨日の晩卒寿祝いの後に、父東洋男に祖父の思い出を思いつくまま語って貰う。
 子供の通学している学校には来ないが、負けた喧嘩はやり直せと言う教育だった。自分自身も腕力には自信があったためのようである。(実際、殆ど運動をしない印象のある祖父が、エキスパンダーを持っていて、坐ったままでバネを3本入れて私達孫の前で、両手で眼一杯引いて見せてくれた時にはびっくりしたものだ。それを見せてくれた頃、七十歳は過ぎていたと思う。)一郎は偏平足だったため、徴兵検査では丙種合格(つまり不合格)だったが、子供の頃には琵琶湖を泳いで横断した、と自慢していたそうである。父はどのくらいの距離を泳いだのか大津に行った時に見てみると、琵琶湖横断と言う大げさな響きほどの距離ではなかったのではないかという印象を持った。それでも数キロは泳いだのではないかと思われる。
 一郎の祖父兼吉(万延元年1860年生まれ)は鉄道技師で、学校こそ出ていないが技術力があったためにイギリス人鉄道技師について鉄道の敷設を行った。その兼吉が群馬県安中市で仕事に従事することになったために一家は松井田町に引っ越した。碓氷峠は傾斜がきついためにアプト式の鉄路を敷くことになった。その技術の特殊性からか、当時兼吉は、松井田町横川で最も高い給料を貰っていたそうである。
 群馬県立高崎中学校を卒業後、関西学院大学に進み、文学部社会学科を卒業したと年表(『箱木一郎「曲面印刷」を語る』日本曲面印刷機株式会社発行 昭和58年1月23日)には書いてあるが、父の記憶では英語とインド哲学の二つを専攻した。
 1923年大学卒業後、東京に転居する。世界文庫刊行会へ入社。そして国際印刷学会に出席した際に三次形面への印刷が当時できないと言う発表を聞き、俄然三次形面への印刷に挑戦してみようと発奮し、1924年頃、東京高等工芸学校(現千葉大学)にて、印刷について研究を始める。
 東京国際倶楽部にも参加しており、大正15年(1926年)頃、大使館に爆弾を仕掛け死亡した越南の志士のために、大久保にあった自宅で河口慧海師を招いて「越南国憂国志士追悼会」を執り行った。参加者はマヘーンドラ・プラタプ(1886-1979)、ラス・ビハリ・ボース(1886-1945.1)、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵等。尚、<神保町系オタオタ日記>2011-03-31の記事によれば、主催は陳福安。
 祖父一郎は、若かりし頃は理想に燃えていたようで、特高が家の周りをうろついているような状態で普通の会社勤めは難しいと感じており、それ故に独立できるように何かをしようと考え発明家になったのではないか(東洋男談)。
 
註:東京国際倶楽部は『賢治の事務所』http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/index.htmlの『宮沢賢治の東京における足跡』を歩く
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/sokuseki/index.htmlが参考になる。
<以下引用>
1926(大正15)年12月12日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。 フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述するのが一番だといわれる。 この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつを送ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所で オルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習をする、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動 もあった。 観劇やセロの特訓がそうである。
■関連作品など:
《書簡221 1926年12月12日 宮沢政次郎あて 封書》 今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出てみました。 あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりのない愉快な会でした (略) 実はにこの十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果を与へました。 エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と言語の記録と築地小劇場も二度見ましたし歌舞伎座の立見もしました。 (略)

1926年に賢治もこの集会に出席しているので、宮沢賢治と同年生まれの祖父一郎が、賢治と同じ場所にいた可能性があると考えると、少し楽しくなる。


祖父一郎の思い出 その2 [箱木一郎の思い出]

祖父一郎の思い出 2014-07-26 土曜日

 今日は、姉にできるだけ祖父の思い出を語ってもらったので、それを書いておきたい。
 祖父の奇人ぶりについて。シュバイツァー博士よろしく、探検用ヘルメットを被り半ズボンを履いて、パイプを咥え外を歩き回っていたそうである。あくまでも聞いた話なので姉も見たことはない。
 姉もそうだったが、私達孫にはしばしば按摩をするように言いつけた。姉によると祖父は孫に按摩してもらうのが好きだった。握力もまだ付いておらず、程ほどの握力で押されれば、子供の指先の肉は柔らかいので、確かに気持ちよかったであろうと思う。運動嫌いで、外出はまれにしかせず、たまに散歩に行く時は喜多見の家の近くから狛江くらいまで、祖父のシゲさんと一緒に出かけた。
 姉の言葉で思い出したが、祖父は白髪を抜いたり、顎鬚を毛抜きで抜く癖があった。姉によると「これは、ただ抜いているんではないんだよ。あれこれ考え事をしているんだよ。」と理由付けをしていたそうである。
 祖父一郎が使っていたふざけた言葉。ボストン。これはトイレのことである。祖父はトイレに行く時に「これからボストンへ留学に行ってくる。」と言った。姉に何故ボストンと言うか分かるかと言ってしてくれた説明については省略するが、推測の範囲で充分に理解できると思う。ニューヨークはボストンの近くにあるが、これは言うまでもなく浴室のことである。喜多見の家のトイレと浴室は隣り合わせになっていた。この類の言葉は、父からも聞いたことがある。オストアンデルは饅頭、ヒネルトジャーは水道栓。
 祖父は家が好きで殆ど家の中にいた。たまに虎ノ門の特許庁に徹哉叔父と出かける時が、祖母が外出を楽しめる機会だった。そんな時には、祖母は姉を一緒に連れて行ってくれた。行ったのは新宿の伊勢丹、東京の大丸、有楽町のそごうなど。当然のことながら夫の帰宅前に帰るように買い物を済ますのだが、祖父一郎の方が早く特許庁から戻っている時もあった。そんな時は祖父は喜多見の駅まで祖母を迎えにきていたそうである。確かに、祖母なしでは生きてゆけないような人だった印象がある。
 祖父の服装について。夏は自宅ではパンツ一枚。或いは浴衣。冬は着物や丹前。一方外出する時は、日本橋丸善など仕立てた背広に、やはり革靴。この革靴は姉やシゲが磨いた。そして、この背広は全て祖母シゲがワイシャツ、ズボン、ネクタイ、上着と言うように順番に一枚ずつ着せ、祖父は着せ替え人形のように着せて貰うばかりだった。
 好きな食べ物は、薄皮饅頭。祖母は新宿に出た時は祖父の為に追分団子を土産に買って帰った。味付けは甘辛が好きで、脂っこいものが特に好きだった。平素は質素だったが、たまに松坂牛の霜降りですき焼きを食べたり、天麩羅を食べたりした。一度、大阪の松下電器の方がお土産に松茸を持って来てくれたことがあったが、その時にはすき焼きにその松茸をいれて食べたそうだが、松茸の香りが素晴らしかった、と姉は今でもその味を覚えているようだ。
 好きなテレビは、プロレスで、力道山がアメリカ人の敵役を空手チョップで倒すのを見るのが特に好きだった。叔父徹哉の運転するヒルマンに乗る時にもそうなるのだったが、プロレスを見ている時、祖父は興奮して人が変わったようになり、「それいけ!」「空手チョップだ!」などと画面に怒鳴っていたらしい。社会党の浅沼稲次郎が山口二(おと)矢(や)に暗殺された時、そのニュースを見ていたそうで、姉もその状況を覚えている。他には日曜日に放送されていた小浜利徳と細川隆元の「時事放談」を見ていた。
 朝には濃い目のお茶を飲み、新聞を熟読する。そして気に入った記事は切抜きをし、赤鉛筆で丸をしてスクラップ帳に貼った。確かに、現在ある祖父の若かりし頃の新聞記事や雑誌記事のスクラップは非常に貴重な情報が満載で、このような几帳面なところがなければ祖父がどのようなことをして来たのかは、今ほどよく分からなかったかもしれない。
 筆記用具などの文房具にも拘りがあったようで、いろいろあったようだが詳細は不明である。極太のパイロット製の万年筆を愛用していた。
 祖父は舶来物好き、新しい物好きであった。オープンリールのテープレコーダーがあったし、タイプライターもあった。
 無宗教。戦時中にはインドの土侯や独立運動の志士ビハリ・ボースとの面識もあったため、特高にも目をつけられていたらしい。このインドの土侯については、喜多見の家の庭で撮った記念写真がある。赤ん坊だったサチヤ叔母も一緒に写っていたと思うが、その写真をもう一度見て確かめる必要がある。サチヤと言う名前は、ガンジーの唱えたサティヤ・グラハのサティヤ(真理)から取っているが、この土侯がつけてくれたのだと聞いたことがある。叔母の名前は、なんと立派な由来のある名前だろう。
 以上が祖父についての姉からの取り敢えずの追加情報である。

箱木一郎の思い出 その1 [箱木一郎の思い出]

祖父一郎の思い出 2014-07-21 月曜日 海の日

 祖父の思い出については、纏めてみたらその人となりが少し分かって面白いかもしれないと思いついた。そこで、早速、母にもあれこれ聞いてみたが、記憶が大分曖昧になってきている。年齢が年齢なのでそれは致し方ないことである。正確を期そうとすると、無理があるので多少事実とは異なっていても、参考になればよいと割り切って書くことにする。
 母が箱木一郎に初めて会ったのは昭和17年(1942年)のことだった。それは、母が信州の弥生女学校を卒業後、千代田区富士見町の商業専門学校に入って2年目のことだ。母は商業が嫌いだった、というよりも訳が分からなかったので、父親が経済的にもう少し余裕があれば日本女子大学で日本の古典文学を読みたかったようだ。しかし、兄二人も大学へ行き、姉は花嫁学校へ行っていて、戦時中のこともあり娘を大学へやるだけの金がなかった。結果として母は商業の嘉悦孝(たか)女史の創設した専門学校へ進学するが、そこで父の姉である箱木博子と同級生となり友達になった。伯母博子は、父から聞いているかぎりでは、非常に気の強い女性だった。名古屋の商業学校を主席で卒業した頭のよい女性で、父は彼女と比較されて嬉しくはなかったようだ。女子医専(東京女子医学専門学校)を受験したが、口頭試問を受けていた際、どうして商業学校を出た者が医学校を受験するのかと問われ腹がたった彼女は吉岡弥生女史と口論し、不合格になったと言う女丈夫であったらしい。そしてこの吉岡女史と嘉悦女史とは友人だった。その伯母博子が父親一郎のことを学者かなんかのように自慢げに話していたので、インテリ好きの母としてはかすかな憧れを持ったのかもしれない。
 母は専門学校の寮で生活する予定だったが満室となっていたため、代々木にあった嘉悦女史の自宅に間借りすることになった。女史の家には都合二年半いることになったが、女史の思い出としては洗濯物をしていた時に、彼女から色物は白い生地に染まってしまうので白いものとは一緒に洗わないようにと注意して頂いたそうである。女史は、若かりし頃、熊本の緑川製糸工場で女工として働いた経験があった。
この代々木の家から、世田谷区喜多見にあった一郎の家には数回行った記憶があるそうだ。学者風な人だろうからと、立派な家を想像して訪問したようだが、あまりぱっとしない家だった。発明家なので、そのようなことに無頓着なのである。玄関を入ると入り口にはオルガンが置いてある。母は父親の影響もあって音楽が好きだったから、そのような楽器を見るとついペダルを踏んで鍵盤をいくつか押してみた。壊れたオルガンから音がでた。すると、奥の庭から「うるさい!」誰かが怒鳴った。それが箱木一郎だった。母は慌ててオルガンから離れた。「ごめん下さい。」と言って中へ入ると、当時四十六歳の一郎が両手を広げ、片足を上げて母を歓迎してくれたのを印象的に覚えているそうだ。口にはパイプを咥え、着物を着流していた。今考えれば若いのに、大分年輩に見えた。
その他の思い出と言えば、一郎はトイレへ行く時は、大きなレンズを手に持って、本を持って入ったそうである。トイレは個室で落ち着くので、そこであれこれ考えるのが好きだったのかもしれない。世田谷の家のトイレについて言えば、私が覚えているのは、トイレが自動ドアになっていたことである。蝶番で止められている扉には紐と滑車がついていて、その端には錘が取り付けてある。この錘が自重で下に下がることで、開けた扉を自然に閉めるのである。私は世田谷の祖父の家でこれを見た時「流石、発明家の祖父はこんな工夫もするもんだ」と思ったものである。何か自分でもこんな仕掛けをしてみたいと思ったが、出来ずにそのままになっている。
これは、戦後北海道に渡ってから十数年後の話だが、母を東京に呼んでくれたことがあった。その時祖父は創業した印刷機械の会社の経営も大分順調になり金銭的にも楽になっていたようで、母に旅費を送ってくれた。北海道から上京する際、汽車の二等に乗れるようにしてくれたのだった。が、みすぼらしい身なりをして次姉と私と弟を連れた母に、車掌は二等の席を案内してくれず、無理をせずにと三等を買わせた。尤も青函連絡船については二等船室で船底の部屋ではなかったので、揺れずに済んだ。そして、世田谷についてからは祖母が付き添って着物を買ってくれた。着古しばかり着ていた母は少し地味な着物だったが嬉しかったそうである。そればかりか、歯が悪く、器量が随分悪くなっていた母に歯の治療をさせてくれた。母の前歯は以前に治療した時に、よい消毒薬がなく、ヨードチンキを使用したので、歯の一部が紫色に染まっていたのだった。それを治療し、髪も整えて北海道に戻った時、すっかり可愛くなっていたので、町の役場の人や近所の人々は母が同じ人だと分からなかった、と自慢そうに母は話してくれた。「御父さんには可愛がってもらったよ。」と母。
ちなみに、私の母は若い頃は顔がまるまるしているが、眼がねを外してとった写真などはなかなか可愛いと思う。東京の三菱商事でずっと勤務していたら、相当に垢抜けていたのに、と残念に思うこともある。が、人生に選択肢は一つしかない。
母の一郎についての思い出は、今日はあまり聞き出すことができなかった。父親と一緒の時に聞いたほうが、思い出の連鎖反応が期待できるので、改めて聞いて見たい。そして、姉や兄の思い出も聞いてより多くを記録しておきたい。

1933年11月18日 新聞記事 [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

1933年11月18日 名古屋
陶器に応用した曲面印刷法 名古屋の箱木氏の発明特許局の発明展で“特選”
 本社内にある中部発明互助会員、名古屋市東区芳野町二ノ六七箱木一郎氏発明の『曲面印刷方法』は目下特許局で開会中の特許局発明展覧会へ日本陶磁器輸出組合(名古屋)より出品して特選となり、しかも三大発明の一つを推奨された。
 同氏は東京高等工芸学校で多年研究の結果、この方法を発明し昭和三年七月二十七日特許登録となり本紙でも既に紹介したところであるが、この発明は従来の印刷が総て平面物体を対象としたものを立体物を対象にしたところに世界印刷史の一頁を飾るものがある。
 方法は凸版オフセット方法により金属製凸版にインクを付与し更にゴムの薄膜に印刷した対象物体に転刷するに当たり空気の圧力を利用して両面接着を行うものであるが、転写法とは全然別個のものである、この印刷機械は名古屋高等工業学校松良正一教授の設計並びに監督の下に製作、組立中であるが、同機は三十秒で六色刷となり、一時間に一台で一万個を印刷する能力をもつものであつてこれを需要の最も多い陶磁器印刷に応用し名古屋市の陶磁器業の有力者数氏の後援を得て名古屋市に工場を設け工業化すべく目下準備中である。
 同工場が完成すればさらに陶磁器の生産費を低下し陶磁器界に一新機軸をだすことにならう、なほ同立体印刷の理論は東京高等工芸学校伊藤亮次教授がドイツ学会雑誌に発表し世界学界に呼びかけることになつてゐる。



大阪毎日新聞 昭和八年十一月十八日陶磁器絵付けに画期的の大発明
遂に成った曲面印刷法 名古屋の箱木氏の誉れ
目下東京奨励館で開催中の特許局第一回発明展覧会に入選した十三の特選中三大発明として特許局から折紙をつけられたものの一つに名古屋東区芳野町箱木一郎氏の陶磁器曲面印刷法がある。
 曲面印刷法は従来家内工業的に転写紙によつてのみ可能とされてゐたものであるから、この発明は世界の曲面印刷界に大革命をもたらし陶磁器絵付の理想である機械化大量生産化を実現せしめ
わが国の大衆向陶磁器製造法に一大転換を招来するものとして非常なセンセーションを起してゐる、右につき箱木一郎氏は十七日名古屋陶磁器会館で語る
 発明の要点は凸版オフセットの応用でゴム幕に刷られたインキを被刷面に中間の空気を抜きとり転写するもので八年間の苦心をもつて六年前創案を完成、特許を得たもので今回ははからずも発明展に提出、三大発明と称せられるに至つたことは実に意外な喜びです
なほ同志の発明になる方法を実際機械化し製作を自らやつてゐる名古屋高工松良教授は
語る。
 ドイツ、フランス、オランダなど立派な製品を出す陶業国でもこの種の発明はまだない、大衆向陶磁器の製造界にとつては世界的の発明といつてよい、方法は簡単だが着想が面白いので機械を作つて見た、機械の製造費は約一万円だ、この機械によると一日中時間操作して一万枚を絵付することが出来る
さらに愛知発明協会では
 大変面白い発明です、問題は松良教授がいかなる能力の機械を作られるかこれを期待してゐる
といつてゐる、なほ箱木一郎氏は今年三十八歳、このほかにも三十余種の特許を持つ天成
の発明家で隠れたる後援者には日本陶磁器輸出組合伊藤理事などがあると(名古屋発)

昭和2年の新聞記事より [記録]

昭和 2年の新聞記事
苦心、鉛版に代はるガラス凸版の発明 新時代の大量印刷を志して 箱木一郎君の旗あげ

レンズを通してのガラス凸版がある無名の一青年によつて発明され将来の印刷工業界に一転期を来すかもしれないといふので印刷界各方面に多大のショツクを与えてゐる、発明者は市外西大久保四七〇箱木一郎君といひ今年三十二歳
 ×                  ×
現在の印刷は活字といはず写真といはずすべて必ず一度は紙型(しけい)を通して鉛版にするのであるがこの鉛版は硬度が至つて低く精々三、四万回転でするとその表面は著しく磨滅し印刷の不鮮明を免れない、従つて今日の如く数十万、数百万といふ大量印刷の時代にあつてはその間数回乃至十数回鉛版を取り代へる必要がありこの手数と煩はしさとを避けやうといふのがこのガラス凸版
 ×                  ×
ガラスの硬度は鉛に比して三倍以上で少なくとも五、六万回転の使用に堪へ得るといふのであるがガラス凸版の効力はそれだけに止まらず紙型を要さないで写真から直ちにガラス板に焼きつけることになるのでこれは印刷技術の上においても非常な発明であるといふ
 ×                  ×
勿論これを今直ちに印刷用に供するとすればいろいろ不便を生ずるであらうが少なくとも数十万の印刷に唯一回のガラス版で済む事となり、紙型を用ひない点で手数をはぶく事が出来るといふ事は何といつてもこの発明の一大特徴で将来完成の暁は印刷工業界に偉大な貢献をなすものである
 ×                  ×
箱木君は方面違ひの神戸関西学院の社会学科を大正十年に卒業、上京して印刷界に入り一時は下谷入谷町に小さい印刷工場を経営してゐたがその中に書物の形態方面に興味を持ちネオクロスといふ一枚背布を発明したこともあるといふ、かねて知合ひの東京高等工芸学校の写真化学科の教授伊藤亮次氏に相談して種々研究を重ね教授の指導を得てつひに今日の発明を遂げたものであると
 ×                  ×
右について印刷局印刷課長矢野道也博士は語る『この間芝浦の高等工芸学校へ行つた時一寸実物を見ましたがあれを実際の印刷用に供する場合に若しゴミ等が版面に入つた場合に版を壊すことにならないかと思ふ、それが鉛版であると中へ食い込んでしまふ、しかし印刷技術の校庭が省ける点やガラス版といふ思ひ付は面白い』

東京洋酒新聞 【紹介欄】より「曲面印刷の発明と其応用」 [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

 今日紹介する記事は、祖父の作成して保管していたスクラップ帳の中の新聞記事。 

東京洋酒新聞 昭和4年7月20日(1929年)
【紹 介 欄】
曲面印刷の発明と其応用

―従来の「レーベル」の」代わりに直接瓶に色模様が印刷出来る―
 一体印刷技術は平面状をなす物体に模様付けを為すべく今日まで進歩発達の過程を辿って来てゐる事は衆知の事実である。然るに吾人の日々使用する器物は概ね立体状をなし、而も印刷模様を施さねばならぬ者が沢山にある。ところが印刷技術は平面物体に対して驚嘆す可程発達してゐるが、器物に対しては何等の施す術を有つてゐない。仕方なしに紙に印刷された模様を張付けて間に合わせてゐるが、器物の素材に依つては甚だそぐはないものが多い。即ち吾業界に最も必要なる瓶類の如く鉱物質の者に糊で紙を張付けたのでは、恰も竹に鉄棒を継いだのも同断である。此は当然鉱物質の素材に硝子の光沢と調和の取れる堅牢なる色模様を付与しなければならないと云ふ事は吾人のかねて希望する処であつた。
 ところが必要は発明の母とやら、茲に印刷方法の研究家箱木一郎氏が理論と体験の両面より「曲面体への印刷方法」を完成し、既に帝国特許第八〇〇四六号を初め十余件の権利を得、目下名古屋の日本陶器株式会社並に小倉の東洋陶器株式会社と協同して其応用化の具体的研究を進めつつある次第にて、吾々としては該方法を吾製瓶界にも適用し度く希ふ次第である。
 化粧水瓶の如く全々回収して反復使用せざる者と醸造界の如く頻繁に回収使用するものとは大分模様の強さを異にせざるべからずと思惟するのである。箱木氏には工学士坪井三郎氏とて旧橘硝子工場技師長と云ふ相談相手あり、吾々の希望条件は如何様にも研究される由、折角諸氏の御高見を披瀝して頂き度いものである。
 次に吾々の心配せざるを得ない点は、如何に優秀且経済的であつても登録商標を変へる事は到底出来得ぬ相談乍ら、模様の輪郭も色合もホボ現在のものと同様に仕上るとなれば充分考慮の余地が存するものと思ふ。
 完全に耐久模様が印刷出来れば醸造元は空瓶として市井にコロガツてゐる間にも宣伝が出来、殊に清涼水瓶の場合水に冷やかしても美的商標の*刹脱される事なく、需要者に満足を与え得る事と思ふ。又自社の瓶を完全に回収し得る便宜をも得られよう。
 *「剥脱」か
 次に印刷費の問題であるが、該方法に適合する絶対独特な印刷機械はオフセット印刷機械製造工場として歴史ある濱田鉄工所の顧問技師伊藤魁氏の設計に係り、一日壹萬二千個の印刷五色位をなし得るものを使用する事となる可く、今数字的には判然しないが充分自信があるものの様である。
 因みに箱木氏に照会方希望の向きには本社は喜んでお取次申すであらう。



ドイツ大使への手紙(英文) [記録]

今日は、祖父の書いた英文書簡。
February 9th 1939 Tokio
Ambassador Ott,
German Embassy, Tokio

Your Excellency,

I have the honour in writing this letter to you for asking your kind assistance in the matter of co-cultural movement I am taking for The Gutenberg Museum at Mainz.
During my stay in Germany in 1937 on the way to Paris, where the Grand Exposition of Paris held then, I visited the said Museum to fulfil my long cherished desire to see the monumental works of Great Gutenberg, by whose invention of typography about five hundred years ago civilization of the world has made a leap and stride.
As a printing engineer I could not forget the pages in my diary of the days spent at Mainz. I looked at the old typographical prints exhibited at the Museum with great interest and the collection contained the most valuable literatures gathered from almost all parts of the civilized nations in the world.
However, I regretted then very profoundly that the museum has not a "Japanese Section" in it. Japan imported typography in the 16th century and the art of printing has laid a foundation-stone for civilization of Modern Japan. At my interview with Dr. Ruppel, the chief of the Museum, I expressed my heart-felt regret for his negligence to overlook Japan in their collection. And to make the collection perfect I promised him to donate a collection of the old typographical prints of Japan after returning home. And this promise was warmly accepted by Dr. Ruppel.
After finishing exhibition of my "Kurba Gravo Process Machine" , which belongs to my invention for printing on the curved surfaces of various articles, with good success at The Grand Exposition of Paris I came back to Japan at the end of the year of 1937. Soon after coming home I consulted the matter of the donation of our old typographical prints to the Gutenberg Museum to the committee of the Society of Printing Technology of Japan, to which I belong as a member, and my proposition was unanimously decided by the support of the committee. The movement has further been financially assisted by the Society for International Cultural Relation of Japan and we have opened a joint meetings several times with the directors of the both associations for selection of the prints and compilation of the catalogue for the prints collected.
Your Excellency, I am now filled with overwhelming joy for the success of my movement, by which I sincerely hope to be able to unite not only the hands of the old typographists of both nations but also to show to the contemporary of Japan and Germany how we were tied in this phase of the cultural life far in the past. Before sending the collection of our old prints to the Museum I wish to have an approval of you excellency of this memorable enterprise.
I recently received an invitation from Dr. Ruppel to visit Germany again next year to attend the Five Hundredth Anniversary of Great Gutenberg and his hearty thanks was kindly extended to me. And I perceived this soon as one of the fruits of my movement, of which success I reported to Dr. Ruppel two months ago. And what a joy it will be for us that visitors to the Museum will appreciate the Japanese Section in it!
Your Excellency, give your finishing touch to this memorial work to the Museum by your kind words of introduction to your public which will perfect the donation itself.
In closing this letter I wish to extend to Your Excellency my best compliments and regards, I am, Your Excelleny,
Very truly yours,
Japan Kurba Gravo Laboratory

Ichiro Hakogi President



印刷術の発達と曲面印刷(昭和15年3月9日 於鉄道協会) その5 [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

 クルヴァグラヴーの門出 
クルヴァグラヴォーがこゝに生まれて来たと仮定しまして、その首途についてちよつと簡単に申上げます。私のクルヴァグラヴォーが先づ世の中に第一歩を踏み出しましたのは、先に云ひました第一回の特許局の発明展覧会に入選の光栄を得たこと、それは昭和八年でございます。それから昭和九年に、畏くも御下賜になつてをります恩賜発明励奨資金、金一千円也の御下附を仰ぐの光栄に浴したのであります。更に九年度の商工省の工業研究奨励金九千円を戴きまして、これで当時行詰つてをりました財政方面が非常に楽になりました。
  一色刷機械を六台、五色刷機械を一台取り敢ず動く程度まで造り上げたのであります。その五色刷一台といふのは、半自動的なもので、全部のシリンダーその他をニューマティツクに造つてみたのであります。存外恰好もスマートに出来ました。これは最初一九三七年開催のパリの万国博覧会へ持つて行けしないか、といふ下心があつたものですから、総てをポータブルに造り上げたのであります。当時名古屋にラボラトリーを有つてをりましたが、どうも名古屋では、気の利いた、―外の機械は別ですが―かう云つた機械の製造所がありませんでした。そこで東京深川の関機械製作所の社長さんの関義孝氏の絶大なる御好意の下に―私自らが先刻来た度々申上げますやうに機械について何等組織的な知識を有つてをらぬものでございますから、勢ひ関さんや諸専門家にお縋りするより仕方がなかつたのであります。この関氏は、謂はば私の貧弱な技術を完全なものにしてくれた非常な恩人でございます。それから其の機械が、幸に理化学研究所の辻次郎博士の御選定によつて、パリ博覧会の出品物四十二点とかの内の一つに数へられました。これは私として非常なエポツク・メーケイングなことであつたのであります。巴里出品の直前に、高島屋で発明品展覧会がありました時に、秩父宮殿下、高松宮殿下の両雨宮様の御台覧を辱くして、自ら不束ながら御説明を申上げ得ると云ふ光栄に浴したこともございます。
kurba gravo - lecture at Railway Association.JPG で、話はパリに一足飛びに飛んで、私は、職人さんを一人連れてそのオペレーションに出掛けたやうなわけでございます。其処へは世界人が観覧に来ます確か従来の博覧会の例を破つて三千六十万人の有料入場者があつたといふことであります。ただ残念なことに日本館は、例のエツフエル塔を中心としたセーヌ河に臨んだロケーションの処に極めて貧弱なところを私たちは貰ひました。最初は目抜きの本通に一応指定されたのでありますが、外務省と商工省が愚図愚図してをる間に、ノールウエイにその良い場所を奪られたのであります。とに角三千数百万人入つた内に本館に足をひいたのはその百分の一にすぎないといふ残念な状況でありました。それでも割合に専門家が私の説明を聴いてくれまして、硝子製造家、陶磁器製造業者、ペーパー・カルトン製造家と云つた人たち、この人たちで、私の機械を欲しいといふ意を洩らした人が七十五名ございました。更に私の知つてゐる、例へば、ダルムスタツトのゲーベルの社長、或はアルバートの社長、それからスウイツルのインターナショナルプリンティングマシン会社の社長或はイギリスのライヌタツプの社長、マルノニーの社長等世界のアメリカを除いて重要な人に手紙を出し、電報を発して来て貰ふやう駆り出しをやつたわけであります。唯物主義の国で、何んの風情があつて人の物を見に来る筈はないのでありますが、幸いに曲面印刷といふ機械が動いてゐるといふことが興味を惹いたと見えまして、之等重要な人が態々パリへやつて来てくれたといふことは、非常に私としては面目を施したわけでございます。
 決して自己宣伝をやつてをるわけでございませんが、序でに申上げます。科学第一部の審査についてであります。価額の全出品物は各国を通じて莫大にのぼつたわけでありますが、私のこの曲面印刷機械といふものは、ユニツクのインヴェンションとして、十三人の審査員が全部フル・マークを付けてくれたといふこと、これは後日ドイツ人の主席審査員ドクター・マーシューといふ機械の技師から聞きましたが、「君のやつは、一番簡単にグラン・プリをやらうと、云ふ事に反対なしに決まつた」と云つて居りました。その時に日本の出品物では、理化学研究所がやはり十五点お出しになつてをりましたがこれは過去に於いて産業に非常に貢献したといふので名誉的にグラン・プリーを一点お取りになりまして、都合二点、三十七年のパリ博覧会からは日本は二つのグラン・プリーを下げて帰つて来た次第でございました。因みに吾が曲面印刷は私と関さんの両名義になつてゐます。仏蘭西側も援助者の功績を認めてくれた次第です。
 クルヴァグラヴーの現況 
ずつと素ツ飛ばしまして、かく申します如く曲面印刷といひますものは、印刷史の上では一番若僧でありまして、人間の年齢で申しますとやつと小学校へ入つたか、入らぬの年齢で、これが活発に世の需要に間に合ふといふことは、木に縁つて魚を求めるの類であつて、少し御註文が無理であります。今私共は、大阪の一流の硝子メーカーと共同して新会社を起し曲面印さ鵜の準備をやつてをります。幸ひかういふ非常時状態でありながら、其硝子工場に鉄工所の立派なものがありますから、そこで機械を製造しつつあると云つた状態でありまして、実施上の結果を皆さんにまだ御報告し得ないといふことは洵に物淋しいわけでございますが、是はいまだ齢が若いから已むを得ない。かういふ弁解の弁を弄するわけであります。
 曲面印刷の応用 
ところで、鈴木主事が、勝手に表題を付けて下さいましたが、とに角「明日の使命」と云つたやうなことがありますから、その使命を若干でも申上げて、講演の題旨だけを纏めます。曲面印刷の使命といふことは、要するに応用品目を結局申上げて結論といふやうなことにいたしませう。此の印刷方法の特長は、総て形を造つてから後に、いはゆる成形後に模様を施すべき有りと凡ゆる工芸品に応用することができるのであります。その品目を申上げますといふと先づ今日の予想で一番多いのが、凡有る瓶類、殊にその内麦酒、サイダー、化粧品類の瓶、何れも年産壹千万以上あります。それから陶磁器ベークライト、ああいつた類のものは、今日はまだ加工されてありませんが、これは非常に有望な応用品目と私は想像してをります。それからセルロイド製品、紙器、―紙器と私の申しますのは、平らな紙を後で鋲で止めて形を造つたものでなしに、パルプの状態から之を成形したものを意味してうります。此の紙器につきましては、フランスのメーカーの如きは、非常に立派なペーパー・カルトンを造つてをりまして、曲面印刷の力で最後のメークアツプがしたい、早く完成してくれ―と云つてをりました。日本での瀧の川に何とか紙器会社と云ふのがありますが、其の外にはヴィスコース・パルプから直接成形した紙器はおやりになつてをらぬことが私は不思議で堪らないのです。それから、一切の所謂金属、プレスワークの品物。いろいろございますせう。アルマイトもございませう。その他琺瑯鉄器もございませう。その他等々で存外のところで応用品目がございます。ある人は、例へば、印度向けの靴下にプリントをしたいのだが、というふまアさう云つたやうな話もありますし、それからこれはちよつと可笑しい笑い話としてどうかと思ひますが、お菓子の最中なども焼判を捺してゐますが。あれを何かその筋の認める範囲の材料を使つて、その地方の風物を画き土産物などにしたらどうか、これは勿論本格的な対象として考へてをるのでありませんが、そんなことも考へてをります。
 結 論 
今日は鎌田先生をはじめ、写真の方のお方が沢山ゐらつしやいますから、特殊印刷の話はこの辺で遠慮させていただきまして結論としたいと思ひます。われわれの方で極く近代的に有名な例のライノタイプ、これは独人マーゲンターレルの発明で、それからクリストファネス・ショールスのタイプライター、かういふ風に人類に貢献している発明も、却却その発明は、そのヒントを得た者一人の手やなんかでは決して完成したものではありません。殊に私如き、先刻来、何回も申上げましたやうに非科学者である者の、発明が到底自分一人の手に負へるといふことは毛頭想像し得ないのであります。今後もますますその道の諸先輩の後後援を得て、棘多き茨の道を目的に向かつて邁進したいと存じてをるのであります。大変まづい講演を御清聴頂きまして心から感謝致す次第でございます。
                                  (拍手)

印刷術の発達と曲面印刷(昭和15年3月9日 於鉄道協会) その4 [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

 日本に於ける研究 
然らば日本ではどうかと申しますと、不肖私が一番先に曲面印刷に手を染めたといふことは特許書類の出願年号が之を実證するわけであります。過去約十年、つまり私が始めましてから後十年も経てから後に、これは記録として書き抜いたのでございますが、名古屋の落合長次郎さん、これは陶磁器絵付業者であります。それから村山義雄さん、この方は歯医者さんでございますが、所謂発明好きのお方ださうです。それから大阪の前田嘉道さん、東京の久世義一さん大阪の篠田元吉さん東京の久米吉之助さんといふやうな方々が、此の十年来曲面印刷に対して大いに関心を持たれてゐるようでございます。そこで私は、今申上げました部分の事を揺籃時代の曲面印刷とでも申しませうか、揺籃時代の研究に対して、洵に僭越ではございますが、私の独断的な結論を下してみたいと存ずるのであります。
  揺籃時代の曲面印刷に対する批評 
欧米の特許への総ては、円筒形への印刷、乃至は凹面への印刷にのみ限られてゐるのであります。日本では御承知の、同じく円筒とそれから例へば、ゴルフ・ボールに印刷するとか、或いは西瓜にマークをつけるとか、要するに会社の名前を捺印するといふ程度のことでございまして凸面への印刷といふことは、これは私に云はしむれば、鬼の眼に看過しとでも申しませうか、内外何れの人も手を付けてゐなかつかといふ次第でございます。これは個人的なことでございますが、私の研究には非常に幸ひであつたわけであります。この今申します円筒面への印刷は如何にも立体物への印刷のような感じを与えますが、之は所謂ロータリー・プレスで、これへの印刷は曲面への印刷でない。R・ホー会社のロータリー・プレスといふのは、取りも直さず、この円筒面への印刷機でありまして、ただ器物の周りに印刷されるのであります。円いシリンダに馴染んで印刷されるだけでありまして、これをもつて曲面印刷とは断じて出来ないのであります。幾何学的にはこれは二次面体であつて、決して三次面体ではありません。細長い矩形が単に分析されたに過ぎないのであります。局面印刷のカテゴリーの内に入るべきものでないと断言できます。むしろこれっもやはり名古屋地方で始めた方法で御座いますが、護謨判の印刷方法がございます。これはある意味において曲面印刷とも言ひ得るのであります。大きさ二分位から三寸位までの判をもつて、例へば、デイナ・ウエアの大きなセツトに、女工が非常に器用に、三色、五色といふ合せ刷りでなしに、合せ判しをやつてゐるのであります。むしろこの方がある意味において曲面印刷の分野に喰ひ込んだ方法ぢやなからうかと思ひます。然し、これも敢て印刷の定義を振り翳すわけではありませんが、印刷だけでなくして捺印の範囲を一歩も出てをりません。そこでいよいよ本当の曲面印刷―といふと変な言葉ですが、これは私の二十年間の研究に係る負圧力を利用する所の曲面いんさつについて喋らせていただきたう存じます。
  負圧力利用の曲面印刷方法発明 
先刻申上げますやうに、最初の基礎的研究と申しますか、それを高等工芸で、いろいろ諸先生のご理解の下に研究のスタートを切ったのでありますが、考へてみまするに、曲面印刷の最も広く実施されそうな印刷の対象物は何であるか?その当時の私といたしましては、陶磁器類が数量的に見込みがよからうといふので、断然思ひ切つて、当時東京に居りましたのを名古屋に引越しを致しまして、此処で所謂御輿を据ゑて研究を始めたのでありまう。そこで日本の陶磁器業界では非常に傑いお方で児と殊に輸出組合の創立者、凡有る輸出組合の濫觴を築いた伊藤九郎といふ方がございました。この方の御斡旋によつて、名古屋に於ける四軒の大店の主人公の御後援を得て、ちよつと今から考へますと、非常に乱暴なわけであつたのですが、最初からお皿類に対して六色刷の全自動式の機械を創つてみようといふので、之を実行に移したのであります。幸に当時名古屋高等工業学校の機械科の教授で松良正一といふ方がゐらつしやいました。その方の御助力によつて、全重量十トン六色全自動式の機械を兎にも角にも動くまでにやつてみたのであります。ところが、非常に期待してをりました陶磁器類は、皆様の御家庭に於きましても、例へば、コーヒーカップでございますと、カップは大体一定の形式を持つておりますが、陶磁器製品は、凡有る恰好がアソーテツドされて、商品が構成され、殊に甚しいのは何十ピースといふのがあつて一つの商品になつて居ります。十二人分のお皿に対して、珈琲茶碗とか、砂糖壺、ミルク壺とが組合さつてゐる。ところが、印刷では同じ模様のキャラクターを現して行かなければなりません。到底これは印刷の対象ではないといふことが判つたわけであります。勢ひ全自動式六色刷の機械も、いはゆる力が剰りすぎて、結局三下奴に足を掻払はれたやうな恰好でどうも仕様がなかつたのであります。
 ところが、その当時、特許局で、第一回の発明展覧会を開催なさいまして、私の曲面印刷方法といふfものも選に入れて戴く光栄に浴し、殊に当時の中松長官が、AKを通じて全国に重要発明三、四点を紹介なすつて下さいましたがその一に算へられるやら、或いは「大毎」等が大分英字新聞に翻訳いたしまして、それがイギリスや、米国に運ばれて、アメリカの有名な「セラミツク・インダストリー」といふ窯業専門の雑誌がございますが、それが特に名古屋の領事をやつてをりましたニュートンといふ人を通じて、是非ニュースを供給してくれ―ちいふことで之れに応じました。それから例のマンチェスター・ガーディアンが「英文毎日」を見て批評を試みました。又その批評に対して、マンチェスターの陶磁器業者が非常に皮肉な批評を試みるといふやうなわけで、私の曲面印刷も幾らか海の彼方に知られると云つたやうな状態になつたのであります。今そのマンチェスター・ガーディアンの二日分の批評を、私の頭で之を要訳いたしますといふと、「印刷術の極度に発達したヨーロツパに於いてはアンプレナー・サーフエース―曲面に印刷するといふことは敢て珍しいことではない。然し、従来の研究者は、版の裏の方から空気の圧力で之を押して器物に押し付けようとしました。而してその結果はどれも成功しなかつた。が、日本人の発明家の箱木一郎といふ人の新しいプロセスは、版と器物との間に構成されるエーア・チェンバーから空気を抜き取るといふことにある。これで難解とされてをつた曲面印刷なるものも実用性を帯びて来た。さなきだに廉い日本製品に、詩情を荒らされてをるマンチェスターは、大変な不況に直面するであらう」かう云つたやうな記事を書いておりました。
 偖て、大変横道ばかり喋つてをりますが、曲面印刷とは然らばというふものかといふことを一応ご説明申上げたいのであります。
 今仮に、この図は其処でちょつと描いたので甚だ不細工でありますが、此処に凹面―被印刷体を仮定いたします。お皿或いは丼、何でも宜しいが、かういふものに全面或いは部分的にも印刷をします。この赤いのは、エラステイツクダイアフラム(護謨の薄い板)でございます。この板に予め原版といたしまして金属の凸版を用ひます(。)何故に凸版を用ふるかと云ふ事は長い間の結論から帰納したものですが、要するに凸版オフセツトといふこと(に)尽きます。さうして此の面(例えば皿の凹面)に当てまして、一つの空気室といたします。さうして示してありますが如く、その一部分例へばリームの直上が都合好いんでありますが、その適当なところから中の空気を抜き取ります。さうしますと、すべての部分が之に密着致します。中間工程において、すべて此器物の面に対して直角に圧力が作用してくれるものでございますから、割合にスリップすることなく完全に近く、勿論これだけ(皿の直径)の長さのものがこれだけ(直径の曲線)に伸びるのでございます。こゝに大体一刷限の伸び縮みがあるのでございますが、幸に人間の眼は、正確なやうであつて錯覚を持つてをりますから、一向差支へないわけでございます。これが凹版への印刷の極めて簡単な説明であります。
 それから凸面の場合は、此処に一つの香水瓶を仮定いたします。これを一つのホルダーに抱せるわけです。ですから結局刷りますのに、ホルダーの内側を一つの凹状の印刷面があつて、その被印刷面の中間に、此処に印刷したい凸面上被印刷体が単に介在するといふ風に考へて見れば同じわけであります。どうも頭でつかちの尻すぼみの変なことになりますが、仮に曲面印刷はある程度完成したとまでは勿論言へませんが、理論と致しては完成したといふことにさせていただきまして、私は自分の発明いたしました曲面印刷方法に何とか命名をしたかつたのです。ところが之を『曲面印刷』と云つたんでは、単に日本にもつうずるかどうか心配であります。出来れば自分の子供を世界的に、又時間と空間を超越して、科学の世界には国境がないわけでありますから、世界的に大いに活躍させたい、といふわけで、名前も世界的なものを撰ぶ様に希望してゐました。
 「クルヴァ・グラボ・プロセス」と命名
 私は、本来非常にアンチブリチツシュの男でございまして、英語で名前を付けるなんといふことは頓でもないことであります。ドイツ語も嫌やであります。エスペラントが宜しからうといふので、予て私が懇意に願つている秋田雨雀さん、これはエスペラントを日本で最初からやつてゐられる方で、二十年近く前から存じてをります。何とか名前を付けてくれませんか、―と一日寝坊の先生を朝早く敲き起して頼みましたところ、即席に字引をひつぱるやら何かして紙に書いてくれました。それはKurba Gravoとしてはどうかといふわけで、秋田氏を名付親としたのでございます。このクルバと申しますのは、大体欧洲の言葉で、所謂曲つてゐるといふことの意味を想像し得る語であります。勿論エスペラントとしても字引にちやんとある言葉でなしにもぢつた言葉であります。それからグラヴォーといふのは、取りも直さずグラヴユヤであります。本来印刷と誰しも想像出来る言葉でございます。斯くの如く私の曲面印刷機は、ヤンキーネームでもなく、ジョンブルネームでもなく、エスペラントのクルヴァ・グラヴォーといふのです。新渡戸先生の甥御さんが、非常にフオネテイカルでいい名前だからそう命名しなさいというふことを云つて下さいましたことがございました。

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